歩いてめぐる!流山本町の文化人ゆかりの地

流山白みりんの魅力

みりん醸造を行っていた秋元本家跡。「一茶双樹記念館」

これまでのブログでは、流山本町でみりんを購入できるお店やみりんを使ったメニューがあるカフェなどを紹介してきましたが、流山本町の魅力は、「食」だけではありません。

白みりんの醸造で栄えた流山本町。その経済的な余裕により、文化的な活動や支援ができたのだと考えられ、流山本町には、文化人ゆかりの地が残っています。今回は、白みりんの醸造で繁栄した流山本町を散策しながら訪れたい「文化人ゆかりの地」を紹介していきます。

秋元双樹と小林一茶

江戸時代後期に白みりん2大ブランドのひとつである「天晴みりん」を生み出した五代秋元三左衛門のことは、以前のブログでもご紹介しました。五代秋元三左衛門は、醸造業を稼業としながら、俳句に造詣があり、俳号を「双樹」と称し、俳人の小林一茶と交流がありました。

俳人の小林一茶は、1803(享和3)年から1812(文化9)年までの9年間に約50回、延べ130泊にわたって流山を訪れており、秋元双樹との連句も残しています。五代秋元三左衛門と小林一茶は、兄弟も及ばぬ親交を重ねたといわれており、流山は一茶の第2の故郷と呼ばれています。

一茶双樹記念館

本町通りを一本東に入った天晴通りには「一茶双樹記念館」があります。五代秋元三左衛門と俳人・小林一茶が親交を深めた旧秋元本家は、1990(平成2)年に「小林一茶寄寓の地」として、流山市指定記念物(史跡)第1号に指定された後、1995(平成7)年に「一茶双樹記念館」として開館しました。

記念館の入口には、酒造りやみりん醸造を行っていた頃の商家が再現されており、2階には、双樹や一茶などの俳句に関連する資料が展示されているほか、句碑庭があり、一茶の故郷の黒姫山の石に、一茶が流山で詠んだ「夕月や流れ残りのきりぎりす」の句が刻まれています。

また、1857(安政4)年頃に建てられた秋元家の書院を解体復元した、数寄屋風造りの双樹亭は、俳句会や短歌会のほか、茶会にも利用されています。

「一茶双樹記念館」の当時を偲ばせる庭園

秋元洒汀(秋元平八)と明治期の文化人

流山には、五代秋元三左衛門の他にも、文化人と交流を深めた人物がいます。

秋元三左衛門の天晴みりんの工場向かいで味淋酒類醤油商として、秋元平八商店を営んでいた秋元洒汀(秋元平八)です。洒汀(しゃてい)は雅号です。秋元洒汀は、流山銀行(1898(明治31)年設立)の発起人のひとりであり、流山町会議員も務め、赤城神社拝殿の建築に関わったほか、自転車愛好家の集まりである『曙輪友会』の会長でもあった人物です。秋元洒汀は、日本画家の寺崎廣業や竹久夢二、小説家の田山花袋等を流山に招き、自身の案内で赤城神社を参詣し、自宅でもてなしを行っています。

このように、秋元洒汀は、多くの芸術家に慈愛溢れる支援を行ったことでも知られ、中でも、眼病に苦しんだ上、若くして亡くなった天才日本画家・菱田春草には惜しみない援助を行いました。国指定重要文化財となっている春草の代表作「落葉」「黒き猫」などは、当時は、秋元洒汀が所有していました。

杜のアトリエ黎明

一茶双樹記念館と天晴通りを挟んで斜め向かいの位置に見えるのが、「杜のアトリエ黎明」で、多くの画家や文人と交流のあった秋元洒汀の自宅に建てられています。

秋元洒汀の養女・秋元松子は、画家・歌人として活躍しました。杜のアトリエ黎明は、松子と夫の画家・笹岡了一の創作の場となり、後進の育成も行いました。現在、杜のアトリエ黎明は、流山市に寄贈され、市民の芸術文化活動に利用されています。テラスでは、美しい庭園を眺めながら、カフェメニューを楽しむこともできます。

「杜のアトリエ黎明」は、洋画家・笹岡了一、また画家で歌人・秋元松子のアトリエだった

光明院

杜のアトリエ黎明のほぼ正面に、「光明院」という寺院があります。この場所は、秋元三左衛門のみりん工場があった広い土地の東側にあたり、五代秋元三左衛門や秋元洒汀(秋元平八)の墓があるほか、小林一茶と秋元双樹が詠んだ連句碑が建てられています。光明院は、新選組の隊士が分宿したとされる寺院でもあります。

光明院の南側に隣接する赤城神社にも、双樹宅で詠んだ一茶の句碑が建っています。光明院を訪れた際には、赤城神社にも、ぜひ立ち寄ってみてくださいね。

新選組隊士が分宿したといわれる寺院「光明院」

カテゴリー

アーカイブ